モックアップは、もうある
言ってしまう。モックアップはもうできている。
議事録から要件は抽出済み。事前確認資料も読み込んだ。UIのモックアップも組み上がっている。やろうと思えばアプリに載せて、簡易的なウォークスルーテストまでできる状態だ。
でも、今やるべきことは「要件定義書」を作ることだ。
AIエージェントチームを使えば、要件抽出から定義、モックアップ作成まで一気通貫で回せる。一人で全領域を12年やってきた人間が、全領域の分身を手に入れた。物理的に「できる」と「出す」の間に、かつてない距離が生まれている。
この距離をどう扱うかが、プロかどうかの分岐点だ。
大企業の意思決定は「合意の儀式」
クライアントは大企業だ。大企業には大企業の作法がある。
要求定義が終わり、今は要件抽出から定義の段階。プロセスとしては「次」に進んだだけだが、この一歩に意味がある。前のフェーズで「みんなが合意した」という事実が積まれたから、次に進めている。
大企業の承認プロセスとは、集団意思形成の実装方法だ。
「部長が確認しました」「関係者全員が目を通しました」「では、この方向で決定とします」——この順番を一つでも飛ばすと、どんなに良いものを作っても巻き戻る。
本質的か? 正直に言えば、違う。生産的か? それも違う。
だが、それが組織の意思決定を動かす現実のメカニズムだ。 本質的でないからと無視すれば、プロジェクト自体が止まる。
先方の担当者もわかっている。「もっと速く進められるのに」と内心思っているだろう。でもプロセスは飛ばせない。なぜなら、担当者一人が「良い」と思っても決まらないからだ。上長が確認し、関連部署が合意し、会議で承認される。決めるのは個人ではなく、組織の合意構造だ。
制作会社が知らない「お作法」
NEC、IBM、アクセンチュア——こういう企業は、この「お作法」を当たり前に理解している。提案書の粒度、承認フローに合わせた資料の切り方、定例での議題の出し方。息をするようにやっている。
多くの制作会社や中小開発会社は、これを知らない。
「クライアントが遅い」「意思決定に時間がかかりすぎる」「もう作れるのに待たされている」——こういう愚痴を何度も聞いてきた。
違う。クライアントは遅いのではない。意思決定の構造が違うのだ。
10人の会社と1万人の会社では、「決める」の定義が違う。10人なら社長が「いいよ」と言えば決まる。1万人の組織では、「いいよ」を言える人のところまで、情報を正しい形で持っていく必要がある。その「正しい形」が、お作法だ。
お作法を理解していない会社は、どんなに技術力があっても大企業案件でつまずく。 成果物の質ではなく、届け方の問題で失注する。
戦略的減速という技術
だからわたしは、あえて減速する。
できることを全部一気に出さない。週次定例のリズムに合わせて、確認事項を切り出す。「次の定例で確認すべきこと」を逆算して、資料をブレイクダウンする。
速く走れるからこそ、減速が選べる。
これはブレーキではなく、ギアチェンジだ。
AIで要件も抽出できる。モックアップも作れる。ウォークスルーテストもできる。全部まとめて「はい、できました」と出すこともできる。
だが、それをやると何が起きるか。
クライアント側で「確認する量」が爆発する。関係者全員が一度に大量の意思決定を迫られる。結果、「ちょっと持ち帰ります」が連発し、プロジェクトが止まる。速さが、遅さを生む。
出力を制御することが、プロジェクトを前に進める。 全部見せるのではなく、今決めてほしいことだけを、決められる形で出す。これが戦略的減速だ。
わざわざ資料を分けて作るのは、無駄なのではない。相手が意思決定しやすい単位に分割しているのだ。
アトリエスタの実務
前の記事で「アトリエスタ」という言葉を書いた。全領域をやれる人間が、AIエージェントという弟子を率いて、自分の名前で作品を出す。
その「全領域をやれる」が本当に意味を持つのは、こういう場面だ。
技術だけわかる人間は、「もう作れるのに」と苛立つ。ビジネスだけわかる人間は、「資料が足りない」と焦る。全部わかる人間は、クライアントの意思決定構造に合わせて出力を設計できる。
We ship. We own.——これは「速く出す」という意味ではない。「届くように出す」という意味だ。
届け方を間違えたら、どんなに速くても届かない。全力で走れる脚力があるからこそ、歩調を合わせられる。それがアトリエスタの実務だ。